昨今は、人に対して「こういうものだ」「こうあるべきだ」という見方を押し付ける偏見が問題になっています。
そのため、
- 自分は偏見をもたない
- 偏見でものを見ないようにする
- 偏見は手放す
といった意見が見られます。
しかし、偏見をもたないということは可能なのでしょうか?
そもそも偏見とは何なのでしょうか?
この記事では、ミニマリストとして人間関係の悩みを手放すために、さまざまなコミュニケーション本・心理学・哲学の本を読み、人間観察で得た知見をもとに、偏見について考察していきます。
偏見について正しく認識することは、人間関係の中でとても大切です。
誤った認識では、人間関係が崩壊しかねません。
あらかじめ考察の結論を言っておくと
『偏見は手放せない。大事なのは偏見を手放すことではなく、常に偏見でものを見ていることを自覚すること』
です。
ではまず、偏見とはそもそも何なのかについて考察していきます。
偏見とは何なのか
まず偏見について、辞書の内容でみていきます。
かたよった見方・考え方。ある集団や個人に対して、客観的な根拠なしにいだかれる非好意的な先入観や判断。「—を持つ」「人種的—」
引用元:goo辞書「偏見(へんけん) とは?」
文字通り、偏った見方、考え方という意味ですね。
思い込みと言い換えてもいいでしょう。
では人は、思い込みを持たずに生きていくことは可能なのでしょうか?
実際には、思い込み無しで生きていくことは不可能であると考察します。
そこで次は、日常に潜む偏見・思い込みの実例を挙げながら考察していきます。
偏見無しでは生きられない
例えば、あなたは道路を歩いていたとします。
ふと道路に目を向けると、そこには細長くて少し太い物体が。
あなたはとっさに悲鳴を上げ、その物体から距離を取りました。
どうしてか?
あなたはその形状から、その物体を蛇だと思ったからです。
しかし、距離を取ってもその物体は動く様子が無い。
よく見ると、それはただの短い縄でした。
このような事例に心当たりはありませんか?
これは、細長くて太いという外観の形状だけで蛇だと思い込む偏見の一例です。
これが偏見が無いといすればどうなるでしょう?
外観だけで何かを判断しないということは、このような危機回避のための行動をとらないということです。
もし本当にそれが毒蛇だったとしたら、逃げ遅れてしまい、噛まれて命を落とすかも。
しっかりよく観察して、それが何かが分かるまで余計なことをしない…などとやっていては、大変なことになる可能性があります。
偏見とは、断片的な情報だけで対象を判断・予測する能力と言えます。
事実ではない見方をしている可能性があるなら、それは全て偏見と言えるでしょう。
別の例を挙げれば、地震が起きれば津波が起きるというのも偏見の一つです。
地震が起きたからといって津波が起きるとは100%言い切れません。
地震=津波ではないのですから、地震があったからといって津波が起きるというのは偏見です。
しかし、だからといって実際に津波を確認するまで避難しないでいればどうなるか、その結果は明白です。
津波が起きたという事実が分からなくても、地震だけで津波を予測し、避難する。
これもまた、偏見があるからこそできることです。
偏見があるから、人間は危機を予測し、回避するための行動をとることができます。
偏見があるからコミュニケーションがとれる
また偏見があるということは、コミュニケーションを取る際にも非常に重要です。
例えば、「犬はかわいい」という発言をあなたがしたとき、相手が「そうだね」とうなずく。
実はこの中に既に偏見が入っています。
それは、「犬」と「かわいい」です。
では偏見が無いとどうなるでしょうか?
偏見が無ければ、「犬」だけでは何の犬を指しているのか分かりません。
秋田犬か、柴犬か、ダックスフントか、はたまたブルドッグか。
それは幼いのか、それとも大人なのか。
体の模様は?毛並みは?
偏見が無いということは、犬という不確かな単語だけで物事を判断しないということです。
ですから、上記のように犬とは何の犬を指しているのかを確認しなければいけません。
さらには、「かわいい」についても同じことが言えます。
かわいいとは一体どんな感情か?
相手の考えるかわいいとは他にはどんな対象に向けて言えるのか?
それに対して、自分の考えるかわいいという表現は一致しているのか?
ですが、普段このようなコミュニケーションを取っている人はまずいません。
「犬はかわいい」と言えば、お互いに犬という単語で勝手に犬を思い浮かべます。
その犬は、もしかしたら違う犬を思い浮かべているかもしれません。
コミュニケーションとは、必ずしも事実のみのやり取りをしているわけではありません。
お互いに断片的な情報だけ、偏見だけで会話している。
「犬種は秋田犬、歳は1歳、背中は茶色で足元は白い毛で覆われている犬は、小動物を前にしたかわいいという感情を感じさせてくれるね」
こんなやりとりをしている人はまずいませんね。
このように、偏見があるからこそコミュニケーションはスムーズにとることができます。
一々事実を確認し合ったり、話す内容の詳細まで確認することはありません。
それはお互いに偏見があり、偏見によって詳細を省略できるからです。
偏見があるから気遣いや親切ができる
また偏見は、気遣いや親切することにもつながります。
例として、「老人は足が悪い」という偏見を挙げます。
これがなぜ偏見なのかといえば、単純に足が悪くない老人もいるからです。
老人=足が悪いというのは事実ではありません。
揺れる電車の中でも、二本の足でしっかり立っている老人もいます。
しかし、老人は足が悪いという偏見があるからこそ、気遣いや親切につながります。
公共の電車やバスで席を譲ったり、エレベーターを優先させたり。
偏見があるからできることです。
これが偏見が無ければどうなるでしょう?
偏見とは断片的な情報だけで判断することです。
つまり、偏見が無いということは、老人だというだけで足が悪いとは判断せず、足が悪いという事実を確認することです。
「あなたは足が悪いですか?立っていられませんか」と確認するということです。
そもそも、「あなたは何歳ですか?老人ですか?」とまで聞くかもしれません。
見た目だけで老人だと判断しないのも、偏見が無いと言えますから。
しかし実際にこのようなやりとりをすることはまず無いでしょう。
逆にそのような事実を確認すること自体が、「気遣いが足りない」と非難されかねません。
偏見で相手を見て、直接事実確認をしない。
偏見こそが、気遣い・親切の基本とも言えるでしょう。
ここまで日常に潜む偏見・思い込みの実例を挙げて考察してきました。
偏見というと悪いイメージがつきやすいですが、そもそもぼくたちは日常的に偏見の中で生きています。
常に偏った見方の中にいて、必ずしも事実かどうかを確認しているわけではありません。
しかし、実際に偏見は問題となっています。
それは、偏見が必ずしも事実ではないからです。
あくまでも偏見は断片的な情報から判断した予測にすぎません。
なので、当たっていることもあれば外れていることもある。
偏見が外れていた場合が問題となっています。
偏見無しでは生きられない。
かといって、偏見は外れて問題になることもある。
じゃあどうすればいいのか?
次は、そんな偏見とどう向き合えばいいのかを考えていきます。
偏見とどう向き合う?
偏見とどう向き合うか。
ポイントして2つを挙げます。それは、
- 『自分は偏見でものを見ている』と常に意識すること
- 偏見を押し付けないこと
この2つのポイントについて解説します。
『自分は偏見でものを見ている』と常に意識すること
人は常に偏見の中で生きていると前述しました。
まずはそれを自覚し、意識することが大事であると考えます。
これは、偏見を意識することが大事だというよりも、偏見が無いと思い込むことのほうが危険であるという考え方からです。
偏見が無いというと素晴らしいことに思えますが、その実態は「自分の見方は間違っていない!」と自分の見方に固執しているだけになっています。
たとえその見方が間違っていたとしても、間違っているのは相手の方。
自分は間違っていない。
だから問題なのは相手の方である。
…と、無茶苦茶なわけです。
世の中で問題になっているのは、偏見があると自覚している人よりも、偏見は無いとして自分の見方の間違いに気付かず、それを押し付ける人のほうです。
ですから、偏見を意識して「自分の見方は間違っているかもしれない」と頭の片隅に留めておくことが大事だと思います。
偏見を押し付けないこと
もう一つのポイントは偏見を押し付けないことです。
前述したように、偏見の問題点は偏見を押し付けることにあります。
もう一度、老人は足が悪いという偏見を例に挙げます。
老人の中には、健脚でしっかりと2本脚で立てる老人もいます。
そのような老人にとっては、足が悪いという見方は悪い意味での偏見であり、受け入れられないことでしょう。
まして、老人と見られることすら非難されるかもしれません。
それなのにわざわざ席を譲られることは、相手のプライドを傷つけることになりかねません。
しかしそうではないかもしれない。
本当は席に座りたい、立っているのが辛い。
でもそれは言えない…という老人もいます。
自分の見方は間違っているのか?合っているのか?
どう行動すればいいのか迷いますよね。
このような場合には、黙って席を立つという行動が偏見を押し付けない行動となります。
席を譲る際に「どうぞ」と一声かけて譲る方もいるかと思います。
ですが、それは言外に「あなたは足が悪くて座りたいんですよね?」という意味合いが込められています。
この時点でもうすでに偏見を押し付けている状態になっています。
ですが、ここであえて黙ることで偏見の押し付けを避けることができます。
空いた席に座るかどうかは、相手次第。
座っても座らなくてもいいという心構えが、偏見を押し付けないということです。
偏見を押し付けないとは、相手を決めつけないことです。
「あなたは〇〇ですよね?」と決めつけない。
「この人は○○かもしれない」と予測を立てつつも、その予測した内容を相手に押し付けないこと。
例えば、女性が重い荷物を持とうとしていたとします。
その女性に対し、「ぼくが持つよ」と声を掛けることは偏見であり、押し付けです。
女性は重い物が持てないという偏見があるのですから。
この場合は、何も言わずにさっさと先に持ってしまうことが、偏見を押し付けない行動です。
確かに声を掛けて自分が持つという行動をとることは気遣いといえます。
それは一方で女性に対し、「重い物は持てないでしょう?」という押し付けでもあります。
女性側にしても、気遣われているという重みを感じさせることもあります。
ですが、声も掛けずさっさと持っていく行動は、それよりも上の気遣いです。
気遣われていることすら相手に感じさせない。
偏見を押し付けないというのは、相手への気遣いにおける最上級のものといってもいいでしょう。
最後に
偏見とは何か、偏見とどう向き合えばいいのかについ考察してきました。
人は偏見から逃れられません。
少ない情報だけで判断するからこそ、危険を回避し、コミュニケーションをスムーズに行い、気遣い・親切な行動をとることができます。
全て事実だけで捉えようとすることは、とても困難です。
しかし、時にその偏見が間違うこともある。
間違った偏見を押し付けることが、現代の問題点です。
だから、自分の偏見は間違っているかもしれないと考え、その偏見を押し付けない。
それが問題回避のために重要です。
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ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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